この記事では、「無知の知」と「不知の自覚」の意味や違いを分かりやすく説明していきます。
「無知の知」とは?
クザーヌスが説いた知ある無知が日本人の間では「無知の知」【むちのち】として広まりました。
意味は自分が何も知らない状態であるかについて知ることという意味があります。
「無知」には知識が揃わず、欠けた状態で完璧ではないという意味合いの言葉であり、このことから自分には何が欠如しているか目を向けて、分かった時点で改善させるべく知識を得る工夫をすることが大事という意味になるのです。
「不知の自覚」とは?
自分が常識的な知識すらない状態であることを認めて、自覚するのが「不知の自覚」【ふちのじかく】です。
いつまでも自分には知識が無い状態のまま過ごしている人よりも、何が抜けているか、どのようなものを得て身につければいいか模索して学ぶ者の方が賢いという意味があります。
この論を唱えたのは哲学者のソクラテスであり、神託の意味として多くの人に考え方を分かりやすく広めました。
「無知の知」と「不知の自覚」の違い
「無知の知」と「不知の自覚」の違いを、分かりやすく解説します。
ソクラテスが唱えた哲学に「無知の知」があるとされていますが、実際には「不知の自覚」を提唱しました。
この間違いは日本国内で誤認されて広まった言葉であり、海外では「不知の自覚」がソクラテスで、「無知の知」はクザーヌスが提唱したと認識されているのです。
クザーヌスは何も知らないことを己で知ることが大事と唱えて、ソクラテスは常識的な知識がない自分の愚かさを自覚するのが大事と提唱しました。
「無知の知」の例文
・『常に無知の知を胸に勉強した妹が有名私立大学に進んだ』
・『知識もなく、口先だけの兄に本当の無知の知を学ばせたい』
「不知の自覚」の例文
・『迷惑をかける人は、不知の自覚の意味すら理解できない』
・『長年努力して学ぶ教授に出会い、不知の自覚を知った』
まとめ
意味がとても似ている言葉ではありますが、提唱した者に違いがあったり、使い方に多少異なります。
使い方を学び、どのような場面でどう使うか提唱してみるといいでしょう。