この記事では、「伺える」と「見て取れる」の違いを分かりやすく説明していきます。
「伺える」とは?
「伺える」は、物事の本質などをぼんやりと予想してこうだろうなと感じ取ることです。
なので、言ってしまえば予想によっておそらくこうだろうと決めつける行為で実際に決めつけ行為が正しいかどうかについてはどうでもよいです。
要は推察とか、予想とか推理という分類に入るのが「伺える」という言葉になり、この言葉は、行動することで、予想だとか推理とか推察という意味になります。
「見て取れる」とは?
「見て取れる」は、見た感じですべてが分かることです。
つまり、肉眼で確認して肉眼で感じ取ったり読み取ったものがすべてです。
例をあげれば、テスト受け、0点を取ったと仮定した場合、0点を取ったという事実は数時から肉眼で確認ができ、それがすべてになります。
よって見て取れるは予想する必要性もなく、見たそれがすべてです。
「伺える」と「見て取れる」の違い
両者の違いは、予想とか推測という分類に入る言葉であるか、見たものがすべてであるかです。
「伺える」は、予想とか、推理という分類に入り、「見て取れる」は見たものがすべてになります。
よって、予想によっておそらくこうだと思うのは、「伺える」で間違いないと目で見て判断できるのは「見て取れる」です。
「伺える」の例文
・『彼の顔色を見るに、良くないことがあったように伺える』
・『この文面からは、彼の必死さが伺える』
「見て取れる」の例文
・『友達の答案を見た際、彼は間違いなく0点であることが見て取れる』
・『この坑道からは、鉄鉱石が発掘できると見て取れる』
まとめ
「伺える」は、物事の本質について目で見て真実を知るのではなく、おそらくこうだろうなと考えて導きだすことです。
一方、「見て取れる」は、肉眼で答えを知るので肉眼で見たものがすべてで文面に答えがあればそれがすべてになります。
なので、文面から予想して答えを導くのは、「伺える」になり、文面に答えがある場合、「見て取れる」だと考えるとわかりやすいでしょう。