「忸怩たる思い」と「慚愧に堪えない」の違いとは?分かりやすく解釈

「忸怩たる思い」と「慚愧に堪えない」の違い生活・教育

謝罪会見で耳にすることの多い「忸怩たる思い」「慚愧に堪えない」ですが、何か違いや使い分けはあるのでしょうか?

この記事では、「忸怩たる思い」「慚愧に堪えない」の違いを分かりやすく説明していきます。

「忸怩(じくじ)たる思い」とは?

「忸怩たる思い」とは、「自らを恥ずかしく思う気持ちや感情」「自らを深く恥じ入る気持ちや感情に駆られること」を意味する言葉です。

「忸怩」とは、「深く恥じ入ること」「深く恥じ入る様」を意味する言葉になります。

「忸(じく)」という字は「忸(は)じる」とも書き、「恥じる」「恥ずかしく思う」「なれる」などの意味を含みます。

「怩(じ)」も同じく「怩(は)じる」とも書き、「恥じる」「恥じらう」という意味を含む字です。


「忸怩たる思い」の言葉の使い方

「忸怩たる思い」という言い回しですが、かしこまった表現であるため、日常シーンで使われることは滅多にありません。

政治家や会社役員の謝罪会見などで耳にすることが多いように、ビジネスシーンやフォーマルな場面で使われるケースがほとんどです。

・『今回の不祥事で、多くのお客様からの信用を裏切るかたちとなってしまい、忸怩たる思いです』
・『自らの軽率な言動を省み、忸怩たる思いでございます』


「慚愧(ざんき)に堪(た)えない」とは?

「慚愧に堪えない」とは、「自分の言動を恥ずかしく思うこと」「自分の行いを恥ずかしく思い、反省すること」を意味する言葉です。

「慚愧」とは、「慙愧」とも書き、「自分の行いを反省し、深く恥じ入ること」を意味する言葉になります。

「慚愧」はもともと仏教語であり、昔は「ざんぎ」と呼んでいました。

「慚(ざん)」という字は「慚(は)じる」とも書き、「徳のある者を敬う心」「自らを省み、罪を深く恥じ入る心」など仏教が説く善の1つを指しています。

「愧(ぎ)」も同じく「愧(は)じる」「愧(はじ)」と書き、もともとは「自分の罪を深く恥じることやその心」を指す仏教用語です。

「○○に堪えない」とは、「気持ちを抑えることができない」という意味を指し、「慙愧に堪えない」は読んで字のごとく、「自らの行いに対し、恥じ入る気持ちを抑えられないこと」を表しています。

「慚愧に堪えない」の言葉の使い方

「慚愧に堪えない」も先述した「忸怩たる思い」と同様に、かしこまった表現であるため、日常シーンよりもビジネスシーンやフォーマルな場面で使われることがほとんどです。

・『この度は弊社の不手際により、関係者をはじめ、多くの方々へ迷惑を掛ける結果となり、慚愧に堪えません』
・『この度は弊社の製品が原因でこのような事態を招いてしまい、慚愧に堪えません』

「忸怩たる思い」と「慚愧に堪えない」の違い

「忸怩たる思い」が指すのは「自らに対して恥ずかしく思うこと」であり、「慚愧に堪えない」が指すのは「自らの行いに対して恥ずかしく思うこと」です。

ただし、謝罪の言葉としてはどちらを使用しても大きな違いはありません。

まとめ

「忸怩たる思い」とは、「自らを恥ずかしく思う気持ちや感情」「自らを深く恥じ入る気持ちや感情に駆られること」を意味する言葉です。

「慚愧に堪えない」とは、「自分の言動を恥ずかしく思うこと」「自分の行いを恥ずかしく思い、反省すること」を意味する言葉です。

いずれの言葉も意味するところは「恥ずかしく思うこと」ですが、対象が「自分」に対してか「自分の行い」に対してかで若干の違いがありました。

謝罪の意としてどちらの言葉を使っても問題はありませんが、一点だけ「慚愧に堪えない」「慚愧に耐えない」と誤用しないように注意しましょう。