「たらしめる」と「ならしめる」の違いとは?分かりやすく解釈

「たらしめる」と「ならしめる」の違い生活・教育

この記事では、「たらしめる」「ならしめる」の違いを分かりやすく説明していきます。

「たらしめる」とは?

「たらしめる」とはそれをそうさせている要素があるから、それはそうなっているという状態や状況を指したり、そうさせている支えであったり原動力を指す言葉です。

「元不良少年だった彼を真面目な父親たらしめるのは、息子を立派に育てるという意志だ」というように使われます。

「たらしめる」という言葉は、何々であるという意味の未然形であるたると、そうさせているという意味のしめるを組み合わせてできています。

外部から手が加えられてそうさせている、そうならされているという場合に使う言葉ではありません。

その人がそういう状態になっているのは、その内部にそうさせている原因や理由があってそうなっている、自発的な力が働いてそうさせている、そういうものが切掛となって自分でそうしているという表現になります。


「ならしめる」とは?

「ならしめる」とは外部的な要因によって、それが現在の状態になっているということを指す言葉です。

「このプロジェクトは関係各社の協力によって可能ならしめる」というように使われます。

「ならしめる」「たらしめる」のように、しめるとなりを組み合わせてできている言葉です。

そしてなるは何々だろうという意味になります。

なりにもしめるにもそう言った意味合いはありませんが、「ならしめる」は使われ方として、自力でそう言った状態に変化するという場合に使われる言葉ではなく、他からの助力や協力といった、外部的要因によってその状態になっていることを指す言葉です。

そうさせている原因や支えがそうなっている人や物の内部にある場合、「ならしめる」とは言いません。


「たらしめる」と「ならしめる」の違い

「たらしめる」「ならしめる」の違いを、分かりやすく解説します。

どちらもそういう状態にさせている物事に言及するために使われる言葉ですが、そうなっている人や物の内側にあるものがその原因や支えである場合に使われる言葉が「たらしめる」です。

逆に外部からそうさせている、他者の力を借りていたりそれ自身ではないものの支えによってそうなっている場合には「ならしめる」が使われます。

自分の意思や内包しているものの影響でそうしているものの場合は「たらしめる」で、自分ではなく他人がそうさせているものの場合が「ならしめる」という区別が可能です。

まとめ

どちらも意味や語源を調べると同じようなものなので、「たらしめる」「ならしめる」も同じに思うかもしれません。

ですが支えになっているものやそうさせているものが、本人の内側にあるものなのか、それとも他者など外部によるものなのかという、使い分けるための基準がしっかりと存在しています。

使われる頻度は「たらしめる」のほうが比較的多く、耳にしやすい言葉ですが、「ならしめる」は間違った言葉というわけではないので注意しましょう。