「安政の大獄」と「蛮社の獄」の違いとは?分かりやすく解釈

「安政の大獄」と「蛮社の獄」の違い専門用語・業界用語

この記事では、「安政の大獄」「蛮社の獄」の違いを分かりやすく説明していきます。

2つの言葉には、どのような意味と違いがあるでしょうか。

「安政の大獄」とは?

「安政の大獄」「あんせいのたいごく」と読みます。

「安政の大獄」は、「安政5年から6年(1858年から1859年)にかけて、江戸幕府が行った弾圧のこと」という意味があります。

幕末の大老・井伊直弼や、老中・間部詮勝らは、勅許を得ないまま「日米修好通商条約」に調印し、さらに、徳川家茂を将軍継嗣とします。

これらの諸作に対して、尊王攘夷を唱える一橋派の大名や公家、活動家である志士などが、反対を唱えると、これらのものたちを弾圧しました。

13代将軍・徳川家定が命令を発しえ、全員を処罰したとされていますが、実際には、大老・井伊直弼がすべて命令を発していたことが分かっています。

1860年に「桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)」により、井伊直弼が殺害されたことにより、弾圧が終息しました。

「安政の大獄」により、水戸藩家老・安島帯刀が切腹、鵜飼吉左衛門が斬罪になるなど、多くの人々が殺されたり流刑の処分にされたり、獄死することになりました。


「蛮社の獄」とは?

「蛮社の獄」「ばんしゃのごく」と読みます。

「蛮社の獄」は、「天保10年(1839年)5月に起きた言論弾圧事件で、高野長英、渡辺崋山などが、捕えられて獄につながれるなど罰を受けた他、処刑されたこと」という意味があります。

この時代は江戸でオランダを通じて日本に入ってきた、ヨーロッパの学問である蘭学が隆盛します。

渡辺崋山(わたなべかざん)はその指導者的な人で、高野長英(たかのちょうえい)は渡辺崋山へ知識を提供するものでした。

このような流れについて、国学者から「蛮社(ばんしゃ)」と呼ばれていました。

「蛮社」は、南蛮の学問を学ぶ同好の集団という意味があり「蛮学社中」の略語です。

1837年に日本人漂流民を乗せた船「モリソン号」を日本側が砲撃した事件「モリソン号事件」などにおける幕府の政策を批判した高野長英は今の終身刑にあたる永牢に処され、渡辺崋山が蟄居の身に処されるなど弾圧が行われました。


「安政の大獄」と「蛮社の獄」の違い

「安政の大獄」「蛮社の獄」の違いを、分かりやすく解説します。

どちらも、幕府による弾圧事件という共通点があります。

ただし、「安政の大獄」は、1858年から1859年の事件なのに対して、「蛮社の獄」は、1839年の事件という違いがあります。

また「安政の大獄」は弾圧されたのが、病弱な徳川家定の後継者として徳川慶喜を推す一橋派なのに対して、「蛮社の獄」で弾圧されたのは、蘭学を愛好する蛮社だという違いがあります。

まとめ

「安政の大獄」「蛮社の獄」の違いについて見てきました。

2つの言葉の意味と違いを知ることで、幕末の日本の様子が透けて見えてくるのではないでしょうか。