この記事では、「背徳感」と「呵責感」の意味や違いを分かりやすく説明していきます。
「背徳感」とは?
社会的にずれている行為したとき、後ろめたいと強く思うことを「背徳感」【はいとくかん】といいます。
とても後ろめたいと感じてはいけないことしたと罪悪感を持つ人が頭を抱えて、悩み辛い気持ちになるわけです。
例えば、醤油を排水口に流すと川を汚すと分かっているのに流してしまったときに持つ愚かな自分に敗北感を感じる気持ちを表します。
「呵責感」とは?
自分のやらかしたことに責めてさいなむ気持ちに包まれることを「呵責感」【かしゃくかん】といいます。
人の物を奪い取ってしまったり、泣かせたとき自らを責めて咎めるのです。
力が弱い女性を泣かせた、怒りに任せて子供を打ってしまったとき深く反省する気持ちを持って自分を酷く責めます。
仏教語からきている言葉で、悪い行為した者を人が見ている前で罰するところから責め苛むという意味で使う言葉です。
「背徳感」と「呵責感」の違い
ここでは「背徳感」と「呵責感」の違いを、分かりやすく解説します。
大人として道徳からかけ離れた行為して背いたとき、後ろめたいと思うことを「背徳感」といいます。
予定にはないのに高い物を購入したり、犯罪者を愛してしまったとき悪いと思う気持ちに酷く包まれるのです。
もう一方の「呵責感」は悪い行為した己を責めるように厳しく叱る気持ちに強く包まれるという意味で使われています。
「背徳感」は愚かな行為して落ち込む気持ちを表しますが、「呵責感」は責める様を表す言葉です。
「背徳感」の例文
・『指示する上司が若手の部下よりも仕事ができない背徳感に悩む』
・『痩せると友人に豪語したのに、肉を食べた妹は背徳感に包まれた』
「呵責感」の例文
・『幼い弟に手を出してしまったとき、酷い呵責感に包まれる』
・『親の装飾品を質屋に売り飛ばした私は呵責感に悩んだ』
まとめ
同じ「感」を使った言葉ですが、道徳からずれたときの後ろめたさを感じる際は「背徳感」といい、悪いことして自分を責める気持ちを「呵責感」と覚えておくといいでしょう。