「世知辛い」と「生きづらい」の違いとは?分かりやすく解釈

「世知辛い」と「生きづらい」の違い生活・教育

この記事では、「世知辛い」「生きづらい」の違いを分かりやすく説明していきます。

「世知辛い」とは?

「世知辛い」は、仏教の用語で、世間はお金がすべてであるがゆえに勘定がすべてにおいて勝るというような考えで、お金がすべてであることに対してつらいという意味です。

なので、このワードの意味は、お金に執着していることについてとてもつらいという意味になります。


「生きづらい」とは?

「生きづらい」は、人間が持つ権利である生きるということを行使することが難しいということです。

あまり言いたくないのですが、生きる権利はまさに生きることへの主張が自由であり、権利保護されると「生きられる」という状況にあることなんですが、それと同時に生きるために働くというのも自由になるので働かずに収入を得ず生活苦になり、生きることを放棄するのも実は自由になり、「生きづらい」は、まさに生きることを放棄したという意味です。

と言いますのも、権利というのはあくまで、そうしたことが自由だというだけで、それを約束するものではありません。

これを絶対に約束するとしますと、お金を稼がずとも生きることが許されるわけですから、社会経済を回すという根本も崩れますし、わがままが許されることにつながるため、あくまで「生きづらい」という状況を作らないと人間社会は実は回らないということです。


「世知辛い」と「生きづらい」の違い

両者の違いは、お金に執着した様子についてつらいと思うか、生きること自体がつらいと感じて生きることを放棄するかです。

「世知辛い」の例文

・『お金がすべての世知辛い世の中だ』

「生きづらい」の例文

・『生きづらい世の中になった』

まとめ

「世知辛い」については、仏教の考え方でお金に執着することについて良しとしないというものです。

仏教ではお金に執着すると欲が生まれるのでお金に執着することを許しません。

一方、「生きづらい」は、人間の権利の一つの生きる権利が機能しにくいことです。

というのも、権利には、権利の主張が許されることと、権利が行使され権利化において保護されるというものがありまして、生きづらいは、保護を受けることができず、苦しくなるということになります。

たとえば、生活保護の申請が通らないと働くことができない人は生活に苦労し、「生きづらく」なります。

一方、働くことができるのに、生活保護を申請しなぜか受理された場合、こちらは、「生きづらい」状況からむしろ「生きやすい」状況に移行です。

なので、「生きづらい」については、平等性は無いと言い切れ、不平等によって、「生きづらい」状況下にあっても、第3者が助けないと実質、自らが生きる権利を放棄したと同じもしくは、強制的に放棄させられるのです。