この記事では、「孫文」と「袁世凱」の違いを分かりやすく説明していきます。
「孫文」とは?
「孫文(そんぶん、1866~1925)」とは、中国の清王朝末期に活躍した政治家であり革命家です。
孫文は「三民主義(民族主義・民権主義・民生主義)」を掲げた「辛亥革命(しんがいかくめい, 1911年)」を起こして清王朝を倒しました。
1912年1月1日に、革命指導者の孫文は南京で中華民国臨時政府の臨時大総統に就任します。
その歴史的事実から、孫文は「中華民国の建国の父・国父」とされています。
しかしその権力基盤は脆弱であったため、革命の成果はすぐに清朝軍閥の袁世凱に奪われることになりました。
第二・第三革命の挫折を経験して1924年には中国共産党と協力する「国共合作」を行うも、「革命いまだならず」と悲嘆して北京で死去しました。
「袁世凱」とは?
「袁世凱(えんせいがい、1859~1916)」とは、清朝末期の軍人で「北洋軍閥」を率いていた実力者です。
1899年の「義和団事変」を鎮圧した功績で直隷総督兼北洋大臣に任命され、清朝の中でも最大の実力者となりますが、政争に敗れて1909年にいったん引退しました。
1911年の「辛亥革命」で再び総理大臣として起用されますが、孫文と通じて1912年に宣統帝を退位させました。
孫文から中華民国の大総統を譲り受けた後、国民党を弾圧して1913年に大統領に就任します。
国会を解散して独裁色を強め、1916年に帝政を復活させましたが間もなく病死しました。
「孫文」と「袁世凱」の違い
「孫文」と「袁世凱」の違いを、分かりやすく解説します。
「孫文」が1911年の辛亥革命で大総統に就任しますが、その後すぐに大総統の地位を奪ったのが「袁世凱」です。
「孫文」は自前の軍隊を持っていませんでしたが、「袁世凱」は北洋軍閥という中国でも最大級の軍隊の首領である点も違っています。
「孫文」が実際に大総統として政治を行った期間はほとんどありませんが、政権を握った「袁世凱」は独裁政治を行って自分が皇帝になろうとした違いも指摘できます。
「孫文」には欧米から学んだ近代的な民族自決の市民社会を中国にも作ろうとする「三民主義」の理想がありましたが、独裁者化した軍閥のボスである「袁世凱」にはそういった政治思想的な市民社会の理想はありませんでした。
「孫文」の例文
・『孫文は欧米に食い物にされている中国やアジアの現状を嘆いて三民主義の理想を掲げました』
・『孫文は中華民国の建国の父として称賛される革命家ですが、軍事基盤を持たなかったため、中華民国のリーダーとして実際の政権を担うことはほとんどできませんでした』
「袁世凱」の例文
・『袁世凱は北洋軍閥という巨大な軍隊を保有していたため、清朝末期の中国において大きな影響力を持っていました』
・『袁世凱は民主主義や人権などの近代思想には興味がなかったため、自分自身が再び皇帝になる野心を諦めることができなかったのです』
まとめ
「孫文」と「袁世凱」の違いについて説明しましたがいかがでしたか?「孫文」と「袁世凱」の違いを詳しく知りたいときは、この記事の解説を参照してみてください。