「大正デモクラシー」と「護憲運動」の違いとは?分かりやすく解釈

「大正デモクラシー」と「護憲運動」の違い専門用語・業界用語

この記事では、「大正デモクラシー」「護憲運動」の違いを分かりやすく説明していきます。

2つの言葉には、どのような意味と違いがあるでしょうか。

「大正デモクラシー」とは?

「大正デモクラシー」「たいしょうでもくらしー」と読みます。

「大正デモクラシー」は、「大正時代に顕著になった、民主主義的思潮のこと」という意味があります。

明治以来の藩閥・官僚政治に反対して、護憲運動・普通選挙運動が展開されます。

「デモクラシー」「民主主義」と訳すことができます。

きっかけは1904年から1905年にかけて行われた「日露戦争でした。

勝利したものの、賠償金が出ず、重税と戦死者を出したことに苦しんだ、国民の怒りが爆発します。

怒った市民は日比谷に集まり、内務大臣官邸などを焼き討ちします。

この「日比谷焼き討ち事件」を契機に民主主義的な運動が広まっていきます。

1917年には、藩閥からではなく、「平民宰相」と呼ばれる原敬が総理大臣になり、この後、日本初の政党内閣が登場しました。


「護憲運動」とは?

「護憲運動」「ごけんうんどう」と読みます。

「護憲運動」は、「大正時代に、当時の藩閥・官僚政府を打倒して、政党内閣を作ろうとした政治運動のこと」という意味があります。

大正元年(1912年)に、長州閥で陸軍の長老・桂太郎が組閣したことにより、政党や新聞記者が中心となり起こした、「第一次護憲運動」と、大正13年に、貴族院中心の清浦内閣に反対し、普通選挙の断行や、貴族院の改革を訴えて、護憲三派が中心となって起こした「第二次護憲運動」があります。

ちなみに「護憲」とは、「立憲政治を守ること」という意味があり、憲法によって、支配者の恣意的な権力を制限しようとする政治のことを指します。

明治時代から続く薩長など雄藩閥が政治の中心となるような動き、また貴族が勝手な振る舞いをするような動きに逆らうように起こった運動が、「護憲運動」です。

日本の将来を決めるのは、一部の特権階級の人間ではなく、市民であるべきだという意識の高まりがこの運動を生みました。


「大正デモクラシー」と「護憲運動」の違い

「大正デモクラシー」「護憲運動」の違いを、分かりやすく解説します。

「大正デモクラシー」は、「大正時代に顕著になった、民主主義的思潮のこと」という意味があります。

一方で「護憲運動」は、「大正時代に、当時の藩閥・官僚政府を打倒して、政党内閣を作ろうとした政治運動のこと」という意味があります。

「大正デモクラシー」は流れの一部が「護憲運動」のため、「護憲運動」「大正デモクラシーの一部」と言うことができます。

そのため「大正デモクラシー」は大正時代周辺に起こった民主主義的思潮全体を指しますが、「護憲運動」は、藩閥官僚政府を打倒する動きだけを指すという違いがあります。

まとめ

「大正デモクラシー」「護憲運動」の違いについて見てきました。

2つの言葉の意味の違いを知ることで、大正期の時代の空気を感じられるのではないでしょうか。