この記事では、「神聖ローマ帝国」と「プロイセン」と「ドイツ」の違いを分かりやすく説明します。
「神聖ローマ帝国」とは?
現在のドイツ、オーストリア、イタリア、フランス南東部を版図に西暦962年から西暦1806年まで存在した帝国です。
カール大帝が、古代のローマ帝国を再興した「西ローマ帝国」を引継ぎ、ローマカトリック教会を中心とするキリスト教圏を守護することからこう呼ばれました。
オットー一世がローマ教皇ヨハネ十二世の手で帝冠を戴き、フランツ二世がナポレオンに敗北するまで存続しました。
歴代ドイツ国王が、神聖ローマ皇帝に即位しましたが、中世以来、諸侯の独立性が高く、大小多数の領邦に分裂して統一国家としてのまとまりがありませんでした。
中央集権制ではなく、域内に存在するボヘミア王国、イタリア王国、バイエルンやザクセンなどの諸公国による地方分権でした。
皇帝位は世襲制ではなく、13世紀には神聖ローマ皇帝が存在しない大空位時代が発生。
その後、選帝侯による選挙が制度化されました。
時代によって、ローマ帝国、神聖帝国、神聖ローマ帝国、ドイツ国民の神聖ローマ帝国と、名称が変わります。
十四世紀末頃から帝国の最期まで、国名に「ドイツ国民の」と言う言葉が追加されました。
16世紀には、ハプスブルク家が皇帝位を継承して全盛期を築き、「ハプスブルク帝国」とも呼ばれます。
「プロイセン」とは?
現在のドイツ北東部の一地方で、ポーランドの一部も含みます。
英語圏ではプロシアと呼ばれます。
元はバルト語系のプロイセン人が居住していましたが、13世紀、ドイツ騎士修道会がキリスト教化を推進。
ドイツから農民、市民、貴族を入植させた領邦が起源です。
宗教改革によってルター派の「プロイセン公国」となり、17世紀にはブランデンブルク辺境伯領と合併。
18世紀にはベルリンを首都に定めるプロイセン王国を形成しました。
18世紀、ホーエンツォレルン家のフリードリヒ大王時代、後のドイツ帝国創立の中核となる強国に成長しました。
「ドイツ」とは
現在の国名は、ドイツ連邦共和国です。
日本とほぼ同じ面積に約8320万人(2020年現在)が暮らしています。
1871年にビスマルク憲法が制定され、ドイツ帝国が成立しました。
第一次世界大戦後の1918年、ドイツ革命によってワイマール共和国が成立しましたが、ヒトラー政権が成立した1933年に崩壊します。
第二次世界大戦の敗北で、東西冷戦期には西ドイツ(ドイツ連邦共和国)と東ドイツ(ドイツ民主共和国)に分裂しました。
東ドイツ側が記者会見で、「ドイツ民主共和国の出入国を直ちに自由化する」と口を滑らせたことが原因で、数千人の東ドイツ人が西ドイツとの国境検問所に殺到。
東西ドイツの統一のきっかけになりました。
社会主義統一党の中央委員会と政治局は総辞職。
歴史を動かす大失言です。
1989年のベルリンの壁崩壊によって、1990年に東西ドイツが統一され、首都はベルリンと定められました。
「神聖ローマ帝国」と「プロイセン」と「ドイツ」の違い
神聖ローマ帝国は、西暦962年から西暦1806年まで存在した帝国でしたが、その実態は、地方の権限が強い連邦国家でした。
プロイセンは、ドイツ騎士団の武力と宣教による征服及び、ドイツ人の東方移民による侵略国家を起源とし、かつては神聖ローマ帝国の一部でした。
ドイツは、神聖ローマ帝国とプロイセンの一部から分離・独立した近代国家です。
まとめ
時代によって版図が異なりますが、現在においても、各州の権限が強く、地方分権の気風が強い国民性と言えます。