「蒔かぬ種は生えぬ」と「果報は寝て待て」の違いとは?意味や違いを分かりやすく解釈

「蒔かぬ種は生えぬ」と「果報は寝て待て」の違いとは?違い

この記事では、「蒔かぬ種は生えぬ」「果報は寝て待て」の違いを分かりやすく説明していきます。

「蒔かぬ種は生えぬ」とは?

「蒔かぬ種は生えぬ」「まかぬたねははえぬ」と読みます。

意味は「何もせずにいても、良い結果は得られないことのたとえ」です。

あるものとにに必要な知識を身に付けなかったり、下準備しなかったりでは、そのものごとの成功は望めないことを表します。


「蒔かぬ種は生えぬ」の言葉の使い方

「蒔かぬ種は生えぬ」は、ことわざとして使われます。

由来ははっきりしていませんが、「面倒くさがって種を蒔かなければ、芽も出ず花も咲かず実もならないので、当然収穫もできないこと」から転じて「最初から努力もせずに良い結果は得られないことのたとえ」として使われる様になりました。

自分から積極的に行動することが大切であるという教訓として使われます。


「果報は寝て待て」とは?

「果報は寝て待て」「かほうはねてまて」と読みます。

意味は、「幸運の訪れは、人の力ではどうにもできないので、焦らずゆっくりと時を待つべきであるということのたとえ」です。

焦って行動しても何も変わらないので、ゆったりと結果を待っていれば良いという心の持ちようを表します。

「果報は寝て待て」の言葉の使い方

「果報は寝て待て」は、ことわざとして使われます。

「果報」は仏教用語で、「前世での自分の行いにより、現世で受ける様々な結果」という意味で、良いこと・悪いこと両方を含みまが、ことわざの場合「良い結果」、つまり「幸運」という意味になります。

「寝て待て」は本当に寝転んで待っている訳ではなく、「日々のことをこなし、それ以上のことをしない」という意味です。

「良い知らせを寝転んで待て」ではなく、「あらゆる因果応報は、焦らず待つべきである」という解釈になります。

「蒔かぬ種は生えぬ」と「果報は寝て待て」の違い

「蒔かぬ種は生えぬ」「何もせずにいても、良い結果は得られないことのたとえ」です。

「果報は寝て待て」「幸運の訪れは、人の力ではどうにもできないので、焦らずゆっくりと時を待つべきであるということのたとえ」です。

まとめ

今回は「蒔かぬ種は生えぬ」「果報は寝て待て」について紹介しました。

それぞれの違いを理解して、正しく使える様にしておきましょう。

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