「薩摩切子」と「江戸切子」の違いとは?分かりやすく解釈

「薩摩切子」と「江戸切子」の違いとは?違い

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この記事では、「薩摩切子」「江戸切子」の違いを分かりやすく説明していきます。

「薩摩切子」とは?

薩摩藩10代藩主「島津斉興」が『中村製薬所』を設置。

江戸からガラス職人「四本亀次郎」を呼んで薬瓶を製造させた事が始まりになりました。

次代の藩主「島津斉彬」がその座についた1851年には『紅ガラス製造所』が完成。

紅ガラスを薩摩藩の主要輸出品に育てるために尽力が行われています。

試行錯誤から生まれた薩摩切子は6色にもなり、現在も伝統色として認知されています。

一度は歴史から姿を消すも1980年代に復活を遂げ、2000年代には「薩摩切子」の新手法により150年の時を越えて新色が3色追加される事になりました。


「江戸切子」とは?

1834年に江戸のビードロ屋「加賀屋久兵衛」が作り出したのが発祥とされています。

金剛石に次いで硬い金剛砂を用いて表面に模様を入れたのがその始まりになったと言われています。

明治に入り「薩摩切子」が廃止。

明治政府の殖産興業の振興、そして1881年に英国からカットグラス技師を招聘した事による技術、伝来。

様々な要素が重なって「江戸切子」はその時代に合わせて進化を遂げていったと言っていいでしょう。

その後二度の戦争を経ての技術革新や新規会社の参入など、なおも変化を重ねたうえで1970年代に東京都伝統工芸品指定を受ける事になりました。


「薩摩切子」と「江戸切子」の違い

「薩摩切子」「江戸切子」の違いを、分かりやすく解説します。

「薩摩切子」は斉興と斉彬、反目していたとされるもの幕末期に置いては優秀な島津藩主2人の対外施策・西洋化の一環として行われたと言っていいでしょう。

実際に外国船が島津領に頻繁に現れた事や更なる先代「島津重豪」がいち早く欧米の文化に触れた事で対外からの知識導入にも抵抗がなかった事、下地ができていたのは大きかったと思われます。

それに対して「江戸切子」はあくまでも当初は民間によるもので、本格的に変化を遂げたのは明治に入ってからの事でした。

「薩摩切子」自体の特徴は色ガラスを使った事でしょう。

また莫大な薩摩藩の資金投入があっての開発であった事に間違いありません。

そしてそれをペイできるだけの輸出品だったとも言えるでしょう。

一方の「江戸切子」は現在でこそ色の被せを使ったものがありますが、本来は民間人のビードロ屋から始まったものであり、シンプルな模様かつ無色透明なものが主流でした。

まとめ

「薩摩切子」は薩摩藩の莫大な資金投入より生まれました。

外貨稼ぎの貿易品でもあり、その華やかさが特徴的。

伝統の6色のうちの1色『島津紫』は純金を使って発色を実現させています。

「江戸切子」はビードロ屋から始まった技術でした。

「薩摩切子」は実質20年程度しか生産されていません。

斉彬の死と西南戦争で技術が失われ、復活するのに150年近くの時間が必要でした。

その間も「江戸切子」は存続。

幾度となく時代の潮流や技術革新による変化を受ける事になりました。

現在は東京都の伝統工芸として指定を受けています。

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