この記事では、「見識」と「見聞」の違いを分かりやすく説明していきます。
「見識」とは?
「見識」は、自分のもつ能力が正しいか正しくないかと理解していることを意味します。
なので、「見識」は、自分が理解できると認識する能力がないと成立しません。
よって間違っている物を間違っていると言えない、正しいことを正しいと言えない場合、「見識」はないと言えます。
要は、「見識」は、うそだとか、真実だとかを見極める能力だという認識でよいでしょう。
「見聞」とは?
「見聞」は、見たり聞いたりするという方法で自分が得る知識のことです。
なので、「見聞」は、実体験などではなく見たり聞いたりという自分は体験しないが間接的に見たり聞いたりした何かです。
なので、「見聞録」というのは、実は実体験ではない上、他人から見たり聞いたりした話をまとめたものなので言ってしまうとうその内容が含まれている可能性もあります。
「見識」と「見聞」の違い
両者の違いは、正しいか正しくないかを正確に理解することであるか、ただ単に、第3者の体験談や見たり聞いたりしたものを自分の知識にするかです。
「見識」が、正しいか正しくないかを理解することで、「見聞」が見たり聞いたりすることで得る知識になります。
「見識」の例文
・『部長はどうにも見識をお持ちではない』
「見聞」の例文
・『見聞録を完成させる』
まとめ
「見識」については、嘘である、本当のことであるという正しくないか正しいかを見極める能力のことです。
だから、ビジネスの席などでは、「見識がおありだ」という言い回しは、嘘であるか本当であるかを理解して見極める能力があるというのです。
特にビジネスの席では、正しいか正しくないかの判断は重要なので、このワードが使用されます。
一方、「見聞」は、正しいかどうかはどうでもよく、他人から聞いた話だとか、他人が見た話だというものなので身もふたもない言い方をすれば、そのお話が自分の役に立てばそれでよしと考えるのが「見聞」です。