「馬の耳に念仏」と「馬耳東風」の違いとは?分かりやすく解釈

「馬の耳に念仏」と「馬耳東風」の違い生活・教育

この記事では、「馬の耳に念仏」「馬耳東風」の違いを分かりやすく説明していきます。

「馬の耳に念仏」とは?

馬を相手にいくらありがたい念仏を唱えても無駄だということから、話を聞いてくれない、理解してくれないという意味合いになっており、「そいつに言っても馬の耳に念仏ですよ」などという使い方になり、この場合、理解してくれない人、その人を知っている人でこの言葉を言う人、ありがたい話をする人の三者の構造になります。

二者での構造では話をする側が「馬の耳に念仏かもしれないが」などと付けてその人のためになる話をするということになります。

辞書によっては馬耳東風と意味に書かれていることもありますが、馬耳東風の意味に近い理解できるが聞き流しているのか、理解できないのかなどの差があるとも言えます。

ただし、話をする側に関しては馬の耳に念仏であろうと馬耳東風であろうと変わりがないのではというのも確かです。


「馬耳東風」とは?

馬の耳には、心地よい風が吹いても何とも思わないという意味で、何を言っても無関心なこと、他人の意見などを聞き流すことという意味があり、ひょうひょうとしているさまという意味もあります。

理解力のなさに関してはこの言葉では問題にされていないケースが多く、話は理解できるものの聞く気がないという立ち位置と見られます。

「彼は馬耳東風な人間だ」「話をしてみたが馬耳東風な反応だった」などの使い方ができます。

非常に馬耳東風な人という強調した使い方も、正式な場でなければ使うことが可能です。


「馬の耳に念仏」と「馬耳東風」の違い

「馬の耳に念仏」「馬耳東風」の違いを、分かりやすく解説します。

互いに話が通らない、話を聞いてくれないという意味合いが含まれる言葉ですが、「馬の耳に念仏」は話の意味がわかっていないという意味合いが含まれており、この場合話をできるだけわかりやすくすることでなんとかなる場合があると言えます。

「馬耳東風」は無関心、聞く気がないという人なので「馬の耳に念仏」よりも話を通すのが難しく、親しい人などに同じ話をしてもらうなど立ち位置、関係性を利用して話を通るようにするなどしないといけない難しさがあり、「馬の耳に念仏」の人よりも話を通すのは難しいと言えるでしょう。

小学生にエンジンの話は「馬の耳に念仏」ということができますが、「馬耳東風」ということはできません。

興味のない人にエンジンの話は「馬耳東風」ということはできるでしょう。

何を言っても聞いて来れない頑固者を「馬の耳に念仏」ということもありえます。

この場合ひょうひょうと受け流すタイプを「馬耳東風」と言えます。

まとめ

「馬の耳に念仏」「馬耳東風」は馬という言葉が使われ、馬が反応しないというところからできたという言葉である点も似ており、意味合いもかなり近い部分があり、話をする側にとってはどちらも同じ苦労という時もありえますが、話を聞くだけの知識がないのが「馬の耳に念仏」、話を聞く気がないのが「馬耳東風」と分けることは可能です。