「屯田兵」と「開拓使」の違いとは?分かりやすく解釈

「屯田兵」と「開拓使」の違い専門用語・業界用語

この記事では、「屯田兵」「開拓使」の違いを分かりやすく説明していきます。

2つの言葉には、どのような意味と違いがあるでしょうか。

「屯田兵」とは?

「屯田兵」「とんでんへい」と読みます。

「屯田兵」は、「土着して平時は農業に従事している兵のこと」という意味があります。

また「屯田兵」は、「明治政府が北海道の開拓と警備のために設置した農兵のこと」という意味があります。

明治7年(1874年)に、「屯田兵」の制度が設けられて、翌年から実施され、明治37年に廃止されました。

西郷隆盛が、氏族におる北方警備と開拓を主唱し、その影響を受けた開拓次官の黒田清隆が、樺太と北海道の兵日の必要を訴えます。

太政官が黒田の提案に賛成したため、「屯田兵」に関する規則を定め、翌年、札幌郊外で屯田が開始されました。

はじめは「開拓使」の屯田事務局に管理されていましたが、途中から陸軍省に移管されます。

また1877年の「西南戦争」では、戦闘に参加しています。

「屯田兵」には土地が与えられ、期間は3年、予備役4年、後備役13年の計20年で、満40歳までに限られました。

その後、北海道の開拓が進み、大規模な入植に適する土地が無くなると、「屯田兵」制度が廃止されています。


「開拓使」とは?

「開拓使」「かいたくし」と読みます。

「開拓使」「明治2年(1869年)に、北海道・サハリンの開拓のために設けられた期間のこと」という意味があります。

アメリカ人のケプロンや、多数の外国人の指導で、各種の開発事業を行いました。

明治15年に廃止されています。

「開拓使」は、北方開拓を重視する政府が作った中央官庁の一つで、省と同格のものでした。

開拓次官の黒田清隆は、アメリカ人のケプロンを招き、政策の助言と技術の伝習を行わせます。

「開拓使」はインフラ事業を諦めて、産業育成に重点を置き、1876年には、「札幌農学校」「開拓使麦酒醸造所」が設立されます。

現在の「北海道大学」「サッポロビール」で、北海道の産業振興に大きな役割を果たしました。

黒田清隆は、「開拓使」の事業を継承させるため、官有の施設、設備を安値で払い下げると「開拓使官有物払下げ事件」としてスキャンダルになり、翌年に「開拓使」は廃止されています。


「屯田兵」と「開拓使」の違い

「屯田兵」「開拓使」の違いを、分かりやすく解説します。

「屯田兵」は、「明治政府が北海道の開拓と警備のために設置した農兵のこと」という意味があります。

一方で「開拓使」「明治2年(1869年)に、北海道・サハリンの開拓のために設けられた期間のこと」という意味があります。

どちらも、北海道開発に関連する言葉という共通点があります。

ただし「屯田兵」「農兵のこと」なのに対して、「開拓使」は、「政府の省庁のこと」という違いがあります。

まとめ

「屯田兵」「開拓使」の違いについて見てきました。

2つの言葉の意味の違いを知ることで、北海道開拓への理解が深まるかもしれません。