皆さんは「諦観」と「諦念」と「達観」という言葉をご存知でしょうか?
普段の生活の中ではあまり使う言葉ではなく、中々調べる機会も少ないかもしれません。
そこでこの記事では、「諦観」と「諦念」と「達観」の違いを分かりやすく説明していきます。
「諦観」とは?
「ていかん」という読み方をする「諦観」は、「本質を明らかに見て取ること」、あるいは「悟りの境地にあって物事を見ること」などの意味を持つ言葉です。
「諦観」の例文
「諦観」の例文が以下のようなものがあります。
・『彼はまるで世の推移を諦観しているようだ』
・『これが僕の運命だと諦観しているんだ』
「諦念」とは?
「諦念」は「ていねん」という読み方になります。
意味は「仏教で言う道理を悟る心」や「あきらめの気持」という意味になります。
少し詳しく表現するなら「真理を悟って迷いを去った境地に達する」と「あきらめの境地に達すること」という表現になってきます。
「諦念」の例文
「諦念」の例文には次のようなものが挙げられます。
・『まるで諦念の境地に到達した感じだ』
・『必死に頑張ってきた10年で諦念した』
「達観」とは
「たっかん」という読み方をする「達観」は「全体の情勢や将来をよく見通すこと」、もしくは「細かなことに迷わされたり悩まされることなく、道理や真理をキチンと見きわめること」「物事にこだわらず、どのような状況にあっても心が動じない状態にあること」ということを指しています。
「達観」の例文
「達観」の例文は以下の通りです。
・『この頃は達観した人が多くなったな』
・『達観したような言い方がカチンと来るな』
「諦観」と「諦念」と「達観」の違い
ここで「諦観」と「諦念」と「達観」の違いを見て行きましょう。
「諦観」は「本質を見極めること」や、「あきらめること」という意味も持っていました。
これと同じように「諦念」も「本質を見極めること」という解釈ができるのですが、仏教用語の1つ。
このことから、「諦念」は「真理に到達した時の心情」という感じのある言葉ですが、「諦観」は「本質を理解する」というような意味合いで使われていると理解してもいいでしょう。
「諦観」は「ものごとの本質を見極めてはっきりと見通すこと」や「悟りを開いた境地で物事を見通す」という理解をしますが、「諦観」の「諦」は「あきらめること」と「諦めの境地に至った結果ものごとを見渡せる」というような解釈に繋がります。
そのために「達観」と比べて見ると、より無心の境地に近いのかもしれません。
「達観」は「考え抜いた先に辿り着く」という印象がある一方で「諦観」は「困難を乗り越えて新しい境地を到達できる」というを意味合いがあります。
微妙ではありますが、このような点が相違点と言ってもいいでしょう。
まとめ
「諦観」と「諦念」と「達観」の違いを説明してきましたが、普段使われることが少ないことなだけにここでしっかりと理解しておきたい言葉です。