元々は仏教の用語であるものが日常生活で使われる言葉の中に入り込んでいるということが日本語にはよくあります。
代表的なものとして「因果」「境界」「世間」などがありますが、「畢竟」という言葉もその一つです。
それでは、この「畢竟」とはどういう意味でしょうか。
また、「究竟」とは、どう違うのでしょうか。
この記事では、「畢竟」と「究竟」の違いを分かりやすく説明していきます。
「畢竟」とは?
「畢竟」とは、「ひっきょう」と読み、一般的には「結局は」「最終的には」という意味で使われる言葉です。
「畢」も「竟」も、共に「終わり」や「最後の」という意味があるので、それを重ねることによって「最後の最後」という意味になっています。
「究竟」とは?
「究竟」とは、「くきょう」「きゅうきょう」「くっきょう」などと読み、一般的には「結局は」や「最終的には」という意味で使われる言葉です。
前述のように「竟」は「終わり」という意味なので、「終わりまで究めた結果」というニュアンスになります。
「畢竟」と「究竟」の違い
「畢竟」と「究竟」の違いを、分かりやすく解説します。
この2つは、「結局は」という意味で使われる仏教用語であるという部分では同じですが、どこに違いがあるのでしょうか。
この2つの違いを最も簡単に説明するなら、文字や読み方としてのニュアンスとして、「畢竟」の方が強い言い方になるというくらいでしょうか。
ここまですでに説明したように、意味的な違いはありません。
どちらも「終わり」を表す「竟」が使われており、違いは「畢」と「究」だけなので、「終わり」を意味する「畢」の使っている方が重ねて強調されているということです。
「畢竟」の例文
・『人間というものは畢竟自分が思うようにしか生きられません』
・『この問題は畢竟解決することがありませんでした』
「究竟」の例文
・『究竟の物と喜びました』
・『究竟の境地に達するのは難しい』
まとめ
この記事では、「畢竟」と「究竟」の違いを、解説してきました。
序文でも述べたように、これらの言葉は私たちの身近にあります。
この機会にこれらの正しい使い方を勉強しておきましょう。