この記事では、「清濁併せ呑む」と「度量が大きい」の違いを分かりやすく説明していきます。
「清濁併せ呑む」とは?
清濁併せ呑むとは、心が広い人をたとえたことわざです。
善と悪を区別することなく、ありのままの姿で受け入れることをいいます。
良いとされるものや正しいもの、都合が良いものだけしか受け入れないのではなく、悪とされるものや都合が悪いものなども公平に受け入れる度量がある器の大きさを表しています。
海が清流も濁流も受け入れることから広い心が思い浮かびます。
また、中国の歴史書である史記に語源とされる「法令は治の具にして制治清濁の源に非ず」という一文があります。
「度量が大きい」とは?
度量が大きいとは、多くのものを受け入れる心の広さを持っていることをいいます。
細かいことにこだわらず、他人の意見や行動を寛大に受け入れることを表しています。
度量は元々、長さや容量、物差しと升を表す言葉でした。
そこから他人の言動を受け入れる広い心という意味に変化していったのです。
度量が大きいは、人柄や性格などを表す場合に使用します。
「清濁併せ呑む」と「度量が大きい」の違い
清濁併せ呑むも度量が大きいも、心が広くどんなことでも公平に受け入れる人を表している言葉です。
清濁併せ呑むは度量が大きいをたとえているので、意味は同じになります。
「清濁併せ呑む」の例文
・『政治家になるには清濁併せ呑むくらいの度量が必要だと思う』
・『彼は清濁併せ呑むような人だったのでみんなから信頼されていた』
「度量が大きい」の例文
・『リーダーには細かいことにこだわらない度量が大きい人を望みたい』
・『クセのある人が多いチームだが彼女は度量が大きいのでまとめてくれるだろう』
まとめ
清濁併せ呑むは度量が大きいことを例えた言葉なので、意味は同じになります。
どちらも心が広くてどんなことも公平に受け入れることが出来る人を表しています。