この記事では、「水清ければ魚棲まず」と「水清ければ月宿る」の違いを分かりやすく説明していきます。
「水清ければ魚棲まず」とは?
「水清ければ魚棲まず」は「みずきよければうおすまず」と読みます。
意味は、「人の性格があまりにも清く正しいと、返って疎ましい存在になり、人が離れていくことのたとえ」です。
清廉潔白過ぎて、ちょっとしたことも許せない様な人は、付き合いにくい人として仲間がいなくなることを表しています。
「水清ければ魚棲まず」の言葉の使い方
「水清ければ魚棲まず」は、ことわざとして使われます。
中国の歴史書「漢書」に記されている、「水至って清ければ、則ち魚なし、人至って察なれば則ち徒なし」という一節からの引用です。
これは、「あまりききれいで澄み切った水に魚は住めない、同じように、清く正し過ぎて、すぐ人をとがめる様な人には、仲間がいなくなる」という意味です。
ここから転じて、「真面目過ぎる性格の人は、返って人から疎んじられることのたとえ」として使われる様になりました。
「水清ければ月宿る」とは?
「水清ければ月宿る」は「みずきよければつきやどる」と読みます。
意味は、「心が清く正しければ、神仏から恵を与えられることのたとえ」です。
常に心がけを良くしておくことで、良い運気が巡って来ることを表しています。
「水清ければ月宿る」の言葉の使い方
「水清ければ月宿る」は、ことわざとして使われます。
由来ははっきりしていませんが、「水がキレイなほど、月が反射してキレイに映る様になる」から転じて、「心が清く正しければ、神仏からの恵で幸運が訪れることのたとえ」として使われる様になりました。
「水清ければ魚棲まず」と「水清ければ月宿る」の違い
「水清ければ魚棲まず」は「人の性格があまりにも清く正しいと、返って疎ましい存在になり、人が離れていくことのたとえ」です。
「水清ければ月宿る」は「心が清く正しければ、神仏から恵を与えられることのたとえ」です。
まとめ
今回は「水清ければ魚棲まず」と「水清ければ月宿る」について紹介しました。
それぞれの違いを理解して、正しく使える様にしておきましょう。