この記事では、「弘法も筆の誤り」と「河童の川流れ」の違いを分かりやすく説明していきます。
「弘法も筆の誤り」とは?
いくら勉学ができる者であっても、専門知識があったとしても間違ってしまうといった意味で使われているのが「弘法も筆の誤り」【こうぼうもふでのあやまり】といいます。
たとえ腕がある名人でも間違いますし、悪い結果になってしまうのです。
元々は平安時代に真言密教を広めた空海が応天門の額を書くとき、「応」の字に点を付け忘れたので、下から筆を投げて打ったところからきています。
「河童の川流れ」とは?
毎日川の中で泳いでいる生き物であっても流されるといった意味で使われているのが「河童の川流れ」【かっぱのかわながれ】といいます。
水流が速い川の中で泳ぐ河童であっても気を抜けば水に押し流されてしまい、さらには溺れることさえあるといったところから、プロであっても失敗するので、気をつける必要性があるのです。
「弘法も筆の誤り」と「河童の川流れ」の違い
「弘法も筆の誤り」と「河童の川流れ」の違いを、分かりやすく解説します。
和尚の空海であっても、字を間違ってしまうという話から生まれた「弘法も筆の誤り」です。
運動ができる人であっても1点も入れられないとか、仕事ができる人であってもデータを入力し損なうといった失敗してしまいます。
もう一方の「河童の川流れ」は知識を学び、努力している専門家であっても時には失敗して迷惑をかけてしまうという意味があるのです。
「弘法も筆の誤り」の例文
・『専門の知識がある設計士が間違うのは、まさに弘法も筆の誤りだ』
・『スキー選手であっても進むコースを間違うのは、弘法も筆の誤り』
「河童の川流れ」の例文
・『救急車の運転手が道を間違うのは、河童の川流れである』
・『20年の講師経歴があるのに、問題間違いするのは河童の川流れだ』
まとめ
たとえ専門知識があっても文章に誤ったり、押し流されるといった意味があります。
言葉の意味を学び、どのような失敗したときにどちらを使えばいいか考察してみるといいでしょう。