「諦観」と「諦め」の違いとは?意味や違いを分かりやすく解釈

「諦観」と「諦め」の違いとは?違い

この記事では、「諦観」「諦め」の意味や違いを分かりやすく説明していきます。

「諦観」とは?

どのような本質であるか自らが目を向けて見極めることを「諦観」【ていかん】といいます。

対象の内容についてしっかり明確にするために深堀してはやるべきか、手を引くかを考えるのです。

「諦観の境地」といえば、欲望を捨てて離れては己を研ぎ澄ますという意味で使われています。

「人生を諦観する」とは、生きるためには何が大事か真理に目を向けるという意味で使う言葉です。


「諦め」とは?

自分には出来ないと思ったとき、前向きに物事を考えれば今やっている作業を自ら放棄することを「諦め」【あきらめ】といいます。

実際には最後までやり遂げようと頑張って取り掛かりましたが、自分の能力では片付けられないと思ったときや、時間がないときは潔く物事から手を引くのも肝心なのです。

このように、自ら駄目だと感じたとき潔く身を引くことを「諦める」といいます。


「諦観」と「諦め」の違い

ここでは「諦観」「諦め」の違いを、分かりやすく解説します。

道理とは何か自らが悟るために持つという意味がある言葉を「諦観」といい、真実に目を向けて本質を探ることで納得するわけです。

もう一方の「諦め」は最後まで出来そうにないと思ったとき、潔く手を引くという意味があります。

悟るというところに焦点を当てた言葉であり、超然するのです。

もう仕方がないと思ったときは、自らが持続をやめて断念します。

「諦観」の例文

・『諦観力を強める努力すれば人生につまずくことなく生きられる』
・『前向きに生きる諦観力がある人は、自己肯定感を高める』

「諦め」の例文

・『やっても片付かないのであれば諦める決断も必要だ』
・『不安を抱えない人は悩むのではなく、諦めて次を考える』

まとめ

「諦」という言葉ですが、「観」を使うか「め」になるかの違いがあります。

どのような意味で使えばより自分の考えを伝えられるかに目を向けてみましょう。

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