「不憫」と「可哀想」の違いとは?意味や違いを分かりやすく解釈

「不憫」と「可哀想」の違いとは?違い

この記事では、「不憫」「可哀想」の意味や違いを分かりやすく説明していきます。

「不憫」とは?

哀れみを感じるほどかわいそうと思うことを「不憫」【ふびん】といいます。

幼くして親と生き別れた子供を見たとき、気の毒に感じる気持ちや、寒い日に外を裸足で歩く人を見て持つどうしようもない気持ちを表す言葉です。

昔は貧しさのあまり子供を都会へ奉公に出したり、売られていく姿が気の毒で心が痛む気持ちを伝える言葉でした。


「可哀想」とは?

気の毒なことに巻き込まれる人がとても哀れに見えて、不憫に感じた人が同情するとき「可哀想」【かわいそう】といいます。

平仮名で「かわいそう」と書き、形容動詞で使われている言葉です。

お金が無くて食べ物が買えず、やせ細っている子供を見て胸が痛む気持ちを表したり、戦いに破れて捕虜となり、酷い環境の中で生活する人を見て「可哀想」と同情すると伝えます。


「不憫」と「可哀想」の違い

ここでは「不憫」「可哀想」の違いを、分かりやすく解説します。

思うようにいかない人の生き様を見て、気の毒と感じる気持ちを表すとき「不憫」といいます。

親が病気でお金が無いために子供がひもじい生活していたり、怪我しては自分でうまく動けない人の様子を見て気の毒と感じる気持ちを伝えるわけです。

もう一方の「可哀想」は事故で片足を失った人や、病気で目が見えないという者に同情して胸が痛む気持ちを強く示します。

「不憫」の例文

・『家族を失った子供が靴を磨いてお金を稼ぐ姿は不憫に見える』
・『火事で家に住めない人がテントに住む生活は不憫でならない』

「可哀想」の例文

・『出稼ぎに行ったきり親が帰って来ない子供が可哀想でならない』
・『いくら仕事とはいえ、過酷な環境で働く作業員は可哀想だ』

まとめ

似た意味を持つ言葉ではありますが、気の毒と感じて同情する気持ちのときは「不憫」を使い、逆境に苦しむ人の姿を見たときは「可哀想」を使うと覚えましょう。

違い
違い比較辞典