この記事では、「天王山の戦い」と「関ケ原の戦い」の違いを分かりやすく説明していきます。
「天王山の戦い」とは?
天王山の戦いとは、1582年に摂津国と山城国の境にある山崎で起きた羽柴秀吉と明智光秀による合戦のことをいいます。
天下統一を目前にしていた織田信長は明智光秀に本能寺で討たれますが、それを知った羽柴秀吉が織田信長の仇討ちを掲げて明智光秀に挑んだのが天王山の戦いです。
現在は山崎の戦いと呼ばれています。
なぜ天王山の戦いといわれていたのかというと、先に天王山を占拠することが重要だったからです。
天王山を先に占拠した秀吉の軍勢は有利になり、光秀の軍勢を破って山崎の戦いに勝利しました。
「関ケ原の戦い」とは?
関ヶ原の戦いとは1600年に美濃国の関ケ原で起きた合戦です。
豊臣秀吉が亡くなったことに端を発した覇権争いで、徳川家康が率いる東軍と石田三成率いる西軍がぶつかりました。
全国のほとんどの大名が巻き込まれた大掛かりな合戦で、天下分け目の戦いといわれています。
西軍に組していた小早川秀秋が東軍に寝返ったことをきっかけに西軍が総崩れとなり、東軍の勝利となりました。
この戦いによって徳川家康は徳川政権の礎を築いたのです。
「天王山の戦い」と「関ケ原の戦い」の違い
天王山の戦いも関ケ原の戦いも天下分け目の戦いといわれています。
天王山の戦いは羽柴秀吉と明智光秀が争った合戦で、関ヶ原の戦いは徳川家康と豊臣政権の存続を求める石田三成が争った合戦になります。
どちらも日本の未来を左右する一大合戦でした。
天王山の戦いでは羽柴秀吉が勝利をおさめ天下人となり、豊臣秀吉と名乗りました。
関ヶ原の戦いでは徳川家康が勝利し、徳川政権の礎を築いています。
また、天王山の戦いは現在、山崎の戦いと呼ばれています。
まとめ
天王山の戦いは羽柴秀吉と明智光秀が争った合戦で、関ケ原の戦いは徳川家康と豊臣政権の存続を願う石田三成が争った合戦です。