この記事では、「お里が知れる」と「親の顔が見てみたい」の違いを分かりやすく説明していきます。
「お里が知れる」とは?
お里が知れるとは、人のちょっとしたしぐさや言葉遣いなどでその人の生まれや育ちが分かるという意味です。
ネガティブな意味で使われる言葉で、相手に対して嫌悪感を抱いた時などに使用します。
「お里」とは嫁の実家を指しており、姑や舅が嫁に対して不快感を抱いた時に「お里が知れる」と表現したとされます。
「親の顔が見てみたい」とは?
親の顔が見てみたいとは、礼儀や常識がない相手に対しどんな育て方をしたのか親の顔が見てみたいという意味の言葉です。
躾のなっていない子どもを見かけた時などに呆れて大人が言ったりします。
日本では昔から躾や礼儀作法が大切とされてきました。
「お里が知れる」と「親の顔が見てみたい」の違い
お里が知れるも親の顔が見てみたいも、悪意のあるネガティブな慣用句です。
礼儀作法がなっていなかったり常識が欠けている相手に対して使用します。
お里が知れるは相手に対して嫌悪感を抱いている時に使用することが多く、親の顔が見てみたいは相手に対して呆れている時に使用することが多い言葉です。
「お里が知れる」の例文
・『あんなに変な箸の持ち方をするなんてお里が知れる』
・『上品な人だと思っていたのに下品な言葉ばかり使うんだからお里が知れるというものだ』
・『お里が知れるから余計なことは言わない方がいい』
「親の顔が見てみたい」の例文
・『電車の中で騒いでいるなんて親の顔が見てみたい』
・『挨拶の1つもできないなんて親の顔が見てみたい』
・『悪戯ばかりしているあの子の親の顔が見てみたいよ』
まとめ
お里が知れるも親の顔が見てみたいもネガティブな意味を持つ言葉で、相手に対して良くない感情を抱いていることを表しています。
嫌悪感が強いのがお里が知れるで、呆れている時に使用するのが親の顔が見てみたいになります。